孫娘から見た長岡阿古美


祖父は・・というよりおじいちゃんといったほうが、私には親しく感じられるので、そのように呼ぶことにする。

おじいちゃんは、幼いころから内孫が兄と私と弟がいたが、母が私を産むときに祖父母の家に行って産んだためか、一番私に対する愛情が深かったように思う。
私は幼稚園に行く前から 時々祖父母の家に任せられることが多く、私は当時 忍者屋敷のように感じた祖父母の家が好きで、祖父母の家の近所の子供達と遊んだりもした。

おじいちゃんは性格は「静」そのもので、一度も激怒したのを見たことがない。
いつも穏やかで、サンタさんのように「ホッホッホー」と笑う姿しか知らない。
本が好きで、家の中に幾つとある本棚には難しい本が一杯であった。
また、マメな性格で5年分記録できる日記などを買い込んで、毎日少しずつ書きとめ、私が高校を卒業して初めてバイトで稼いだお金で、和歌山市の大型中華レストランに家族全員を招待して食事を接待してあげたのもしっかり記録して、数年後にも「何年前の何月何日ごろに食事に行った」などと記憶しているのである。

農協の役員をしているときは、おしゃれでポマードでキッチリ7.3に頭を分け、孫が見ても素敵だった。

意地悪婆さんのように悪言が達者で、肝っ玉母さんのような体格をしたおばあちゃんとの相性はなぜか抜群で、(なんせ18と19のときに恋愛結婚したとか言ってたから)普段はおばあちゃんの言いたい様にしたいようにさせてても、重大なことにはしっかりと権限を持っている人であった。

そして明治生まれだからといって、古い考えの人ではなかった。
新しいものが結構好きで、エアコンやホットカーペットが出たら、すぐに購入したり、「なめ猫」(猫がいろんな服を着た写真集)が流行ると、わざわざ本を取り寄せたりもした。

人を見る目も表面ばかり見るのではなく、子どもに対しても深い洞察で見つめていたように思う。
私が思春期を過ぎて、厳格なおじいちゃんに反発を感じて無礼な言動をしたりしたが、あまりお叱りを受けたことも無い。
今になって申し訳なかったなぁと思う。

それだけに在職時代は職員からの信頼も厚く、一度職場で同僚達が汚職事件で捕まった事件があり(短歌の中にも有り)、おじいちゃんの家まで家宅捜査受けたことがあるが、捜査の後に警察が「いゃー、こんな潔い人は見たことない」と言っていたと 誰かから聞いたことがある。

本人が亡くなる9年前に先におばあちゃんを送り(表紙の歌)、その前に数年間脳卒中で寝たきりになった妻を看病した。(勿論、近所に住んでいる母がよく通ってお世話したのだが・・)
おばあちゃんには時々叱責しながらも、最後まで愛し尽くしたんだなぁと思う。

この3月に亡くなる2週間から1週間前まで、私が1週間だけ病院でお世話をさせていただいたが、息をするのもしんどい中で久々に私の顔を見て、少し元気を取り戻して食事をするまでになったが、私が帰って一週間後におばあちゃんの待つところに旅立たれた。

おじいちゃんの死に目に会えなかったが、かえってよかったと思う。
いつまでも私の心の中のおじいちゃんは、60代の7.3頭の元気で素敵なおじいちゃんであるからだ。

入院中に眠っているおじいちゃんの横で、私がくしゃみをして目をぱっと開けたおじいちゃんが、私をちらっとみてにこっと笑った表情が、今も私の頭に焼きついている。


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